長さ約70㎞、幅約20㎞の知床半島には、500頭くらいのヒグマがいるのではないかと推測されています。知床は世界的に見てもヒグマが高い密度で生息している場所と言えるでしょう。一方、知床には1万7千人強の住民が暮らしています(2016年3月末:斜里町11,935人、羅臼町5,344人)。更に、世界自然遺産地域であり、国立公園でもある知床には年間120万人以上の観光客が訪れます。
たくさんのヒグマとたくさんの人が狭いエリアで活動すれば、当然出会う機会も増えます。事実、2009年以降ヒグマの目撃件数は毎年750件を超えており、2012年度はなんと2,150件、これはヒグマの冬眠期間を除くと1日に約6回の目撃があった計算になります(解説1)。
目撃件数の中には人の生活圏にヒグマが入ってきてしまった事例も含まれています。例えば、2015年度は国立公園に隣接する斜里町ウトロ市街地とその周辺地域では43件、羅臼町市街地では107件のヒグマの目撃が確認されています。ヒグマが通学路を歩いていたり、港で人に威嚇突進して来たり、民家のベランダに侵入したりと一つ間違えれば人身事故につながりかねない事例もあります。そして、住民の考え方も「町に入ってきたクマは即刻駆除してほしい」、「いや、殺さないでほしい」など、様々です。
ヒグマと私たち人間はこの狭いエリアでどのように折り合いをつけて暮らしていけばよいのでしょうか?
ヒグマは知床の豊かな自然を構成する重要な生き物であり、知床を象徴する大型野生動物です。私たちは100年後、200年後も知床からヒグマが地域個体群として消えることなく、知床の自然の中で生活していることを望んでいます。
そのためには、人間、特に地域に住む人々がヒグマの存在を許容できる状態、つまり、地域に住む人々が「ヒグマが近くで暮らしていてもいいよね」と思ってくれる状態を維持し続けることが必要です。人身事故がひとたび発生すれば、また、経済(農業、漁業、観光)被害が大きくなれば、地域の“許容”はとたんに失われてしまいます。そうなった場合、ヒグマは積極的に駆除され、ヒグマが絶滅してしまう可能性も出てきます。ヒグマとの軋轢の大半は人間が気をつけることで回避可能です。地域の人々が許容し続けられるよう、ヒグマによる人身事故を発生させないこと、ヒグマとの軋轢を最小化することが私たち知床財団の使命であり、そのための活動を「ヒグマ対策」と呼んでいます。
現在、私たちは、関係行政機関等によって作成された「知床半島ヒグマ管理計画」(解説5)に基づいて、斜里町、羅臼町および環境省からの受託業務や、一部は当財団独自の活動として、知床半島における様々なヒグマ対策を実施しています。
ヒグマ対策は、ヒグマが実際出没した時の対症療法的な対策と、ヒグマと人が無用に出会わないように、または危険な状況下で出会わないようにすることを目的とした予防療法的な対策に大別されます。また、別の整理をしますと、ヒグマへの対策と人への対策に分けられます。
それぞれの対策の詳しい内容は下記リンクをご参照ください。
このように、知床財団はヒグマに対して、そして公園利用者や地元住民に対して様々なヒグマ対策を行っています。しかし、ヒグマについてはまだわかっていないことが多く、いつどこで私たちの前に現れるか簡単には予測がつきませんし、言葉で意思疎通を図ることもできません。ヒグマに対する働きかけには限界があるのです。
一方、ヒグマ対策のもう一つの対象である「人」とは、少なくとも話はできます。ヒグマとはどういう動物でどんなことに注意すればよいのか、ヒグマに対する人の理解が事故や被害を最小限に抑える近道であり、諸々の課題解決の糸口になると私たちは考えます。
知床財団はヒグマの生態を明らかにしていくことはもちろん、国立公園の利用計画の改善も視野に入れた観光客への、そして地元で暮らす人々への効果的な啓発活動に取り組んでいきたいと考えています。また、農業、漁業、観光など、地元経済の持続的発展に寄与していきたいと考えています。
野生動物管理とは、対象の野生動物の生息地で何らかの人間活動がある限り、結局は人の管理に行きつくものなのかもしれません。
私たちが「ヒグマにいて欲しくない」と考える場所、たとえば道路沿いや遊歩道の中、住宅裏の斜面などにヒグマが現われた場合は、原則として(個体識別用画像の撮影後に)追い払いを実施し、ヒグマにその場所から移動してもらっています。
これは短期的には、ヒグマ見物車両の渋滞による交通事故の発生防止や、過度の接近による突発的な人身事故の防止など、人間側の安全確保が目的です。
中長期的には、人間との無害な接触(人間がすぐ近くにいてもただ見るだけ、写真を撮るだけで、ヒグマがまったく怖い思いをしないような状況)をヒグマが繰り返し経験することで、ヒグマが「人間から逃げる必要はない」と学習し、「人馴れ 」が進むのを防ぐことが目的です。
後述(解説2、解説5)のようにヒグマは人馴れしてしまうと、人に対して徐々に大胆な行動をとるようになります。それは人身事故発生の危険度を上昇させ、ひいてはヒグマの人為死亡率を高めてしまいます。人馴れ防止は、ヒグマの命を守るためにも重要なのです。
ヒグマ目撃通報を受けて現場に急行しても、既にヒグマが居なくなっている場合が多々あります。そのような場合は周辺をよく観察し、移動経路はどこか、どんな食べ物があるのか、人為的な誘引物はないか、足跡・糞・体毛等の個体識別に役立つものは残されていないか探し、記録します。足跡は計測し、新鮮な糞や体毛はDNA分析に供するため回収します。
高栄養で消化しやすい人間の食べ物は、ヒグマにとってきわめて魅力的な食べ物です。餌付け行為や生ゴミの管理不徹底が原因で、ひとたび人間の食べ物を口にしてしまったヒグマは味をしめ、再びそれを得ようと行動を大きく変化させます。いわゆる「スイッチが入った」状態になるのです。
住宅の間を歩き回り、扉やガラスを破って倉庫や人家に侵入しようとしたり、人や車につきまとうようになったりします。このようなヒグマは人身事故を引き起こす可能性が高く、きわめて危険です。
前述の「知床半島ヒグマ管理計画」(解説5)では、人為的食物を食べた個体は「行動段階2」の問題個体(※)とされ、国立公園の外だけでなく、公園内のゾーンにおいても、基本的には「捕獲(捕殺)」が選ぶべき対応方針となります。
私たちは町役場職員や地元猟友会員と連携協力し、このような特定の問題個体については、人身事故防止の観点から可能な限り迅速な捕殺を実施します。
※問題個体:人の活動に実害をもたらす個体。人につきまとう、または人を攻撃する個体。
斜里町および羅臼町内において様々な事情で捕殺されたヒグマは、農地等で地元猟友会員に駆除されたヒグマも含めてほぼ全ての個体が、私たちの手による外部計測を経た後に解剖(解体)されています。
私たちは頭骨、歯、胃、肝臓、腎臓、生殖器、大腿骨、筋肉、体毛等のサンプルを各個体から採取し、北海道庁(北海道環境科学研究センター)や各大学等の研究機関に送り、個体群のモニタリングなどに役立ててもらっています。
また、異常行動の原因になるような病気は無かったか、異常に痩せていないか、古傷はないか、死の直前に農作物や生ゴミを食べていなかったかどうか等は、私たち自身の目で解剖時に確認しています。
交通事故に遭って死んだり、重傷で動けなくなったりしたエゾシカやキツネ等を放置すると、血の臭いに誘われたヒグマが道路上や道路脇でそれを食べ始めます。住宅近くの海岸に漂着したクジラ、イルカ、トド、アザラシ等の死体を放置した場合も同様です。特に、腐敗した海生哺乳類死体のヒグマ誘引力はきわめて強力です。警戒心が強いはずのオス成獣(体重200 kg以上)が、昼間に人前に姿を現わす原因になります。
ヒグマは食べ物に対する執着心や独占欲が強いため、上記のような大きな物を食べている時に人間が不用意に近づくと、ブラフチャージ(威嚇突進)をしてくることがあります。もしそこでヒグマに対して背中を見せて走り出したり、腰を抜かして倒れ込んだりしてしまった場合、襲われる可能性があります。次に何が起こるかは、予測不能です。
そのような危険な事態を避けるため、私たちはなるべくヒグマが気づく前に、道路維持管理業者や町役場等と協力して、上記のような誘引物を回収しています。もちろん、不法投棄された生ゴミ等も回収対象です。
電気柵(※)は、正しい方法で設置してメンテナンスをしっかり行えば、ヒグマの侵入を防ぐことができる強力なツール(道具)です。
ヒグマが電気柵の下をくぐる行動を阻止するためには、最下段のラインの高さを地面から20 cm程度にしておく必要があります。このような低いラインに草が触れて漏電してしまうことを防ぐため、私たちは定期的に電気柵周辺の草刈りを実施しています。また強い風が吹いた日の後には、ラインにかかっている落枝や倒木を除去して回っています。
知床では斜里町ウトロ市街地周辺や斜里市街地につながる防風林、知床ウトロ学校(旧ウトロ小中学校)の周囲、観光地である知床五湖、ルサ~相泊地区、羅臼小学校、羅臼中学校などに電気柵が設置され、ヒグマの侵入防止に効果を発揮しています。また一部の畑では農家の皆さんが自主的に電気柵を設置しており、作物をヒグマによる食害から守っています。
※電気柵には高圧電流(6000~7000 V以上)が流れていますが、正規のメーカーの機械を使っていれば、流れている電流の量はごくわずかです。そのため、電気柵に触れて感電した動物や人は強いショックを受けて精神的なダメージを負いますが、ちょっと触れただけで死んでしまうようなことはありません。
知床五湖の地上歩道(植生保護期)やフレペの滝遊歩道にヒグマが現われた場合、先ずは遊歩道を緊急閉鎖して新たな入場者を制限します。そして銃やクマ撃退スプレーなどを持参して現場へ急行し、まだ歩道内に残っている利用者を可能な範囲でまとめ、避難誘導を実施しています。利用者の安全確認が済み次第、必要に応じてヒグマの追い払いを実施しています。
道路沿いにヒグマが現われた場合、見物しようとする車列により渋滞が引き起こされます。ヒグマを追い払うだけでなく、時には警察(パトカー)や町役場と連携しつつ、交通事故防止のために交通整理を実施します。
ヒグマが頻繁に現われている場所には、釣り人や遊歩道・登山道利用者などに対して注意を喚起する簡易な看板を迅速に設置しています。
釣り人や観光客がキャンプ場以外の場所で野営やバーベキューをしているような場合は、ヒグマに対する注意と食料管理の徹底を促すチラシを配布したりしています。ヒグマが頻繁に現われている地区で、戸別にゴミ管理徹底などを呼びかけるチラシを配ることもあります。
また、2012年にはヒグマに対する餌付け行為を禁止するキャンペーンを行い、絵葉書サイズのメッセージカードを大量に印刷して配布しました。これは2013年には、地域全体の取り組みとしての「知床ヒグマ餌やり禁止キャンペーン」に発展しました。
私たち知床財団の職員は、知床自然センター、羅臼ビジターセンター、ルサフィールドハウス、および知床五湖フィールドハウスに常駐しています。
これらの施設では各遊歩道におけるヒグマ出没状況、ヒグマに出会わない方法、出会った時の対処法、過去の危険な事例などの情報を館内展示や15分程度のトーク・プログラムを通して楽しく、わかりやすく提供しています。
また、羅臼岳や硫黄山、知床岬へ向かう方には、クマ撃退スプレーやフードコンテナのレンタルサービスも実施しています。
ヒグマの生息地に隣接して暮らす住民の皆さんに対し、様々な情報提供を試みています。
斜里町が運用する「ホットメールしゃり」という緊急メール配信システムを用いて、市街地でのヒグマ目撃など緊急性が高い情報を、ほぼリアルタイムで発信しています。
また、ウトロ地域では年に1回、その年のヒグマの出没状況などを話題に、ヒグマについて語り合う井戸端会議ならぬ「クマ端会議」を開催しています。
私たちは定期・不定期に地元の幼・小・中・高校に出向き、ヒグマの生態や出会ってしまった時の対処法などを教えるヒグマ授業を実施しています。短期的には、子供たちの登下校時などの安全を確保することが目的です。長期的視点では、子供たちが成長して大人になった後も、地域の中でヒグマを正しく理解し、問題個体を作りださないような生活をしてもらうことを目的としています。
私たちは、知床で自然を「知り・守り・伝える」活動をしています。
これらの活動は知床を愛する多くのサポーターの皆様に支えられ、今後も支援を必要としています。